頸椎症性脊髄症と共に10年

4つ葉のクローバー
2007年(平成19年)6月、朝起きると左腕にしびれを感じました。
この頃の私は、自動車保険の会社で、契約社員として働いておりました。片道30分かけて自転車で通勤して、パソコン事務のお仕事をさせていただいておりました。

左腕のしびれは、最初は腕を枕にすような寝方をしたのかな、くらいに思っていたのですが、そのしびれは数日間続きました。
気になって、近所の病院へ行くと、レントゲン検査の後、高知医療センターという大きな病院への紹介状が出されました。高知医療センターを受診して言われた病名は頚椎症性脊髄症という呪文のような名前でした。

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天と地がひっくり返った

もともと私は出産時が原因で、脳性小児麻痺という障害がありました。
でも主治医の話では、健常者より動きは悪く遅いけれど、とにかく体を使ったほうがいいということでした。
ということで、小学校から大学まで普通校に通い、体育の授業なども他の人たちと同じように受けてました。なかなかできないことはあっても、時間をかけて練習すればできるようになるという感覚をもっておりました。他の人の倍、3倍練習すればなんとかなり、中高校では音楽部でピアノを弾き、大学ではシンセサイザーのサークルにも入って活動しておりました。

高知医療センターで、初めて主治医のお話を聞いたときは、耳を疑いました。
「脳性小児麻痺の体で、これまで無理をしてきたから、首などに負担がかかって頸椎(首の骨)がずれて脊髄を圧迫している。」
人より努力することによって、なんとか人並みに近づけると思ってたのに、その考え方を全て否定されたような感じでした。
インターネットで調べてみて初めて『脳性小児麻痺の2次障害』という言葉を知りました。アトテーデ型脳性小児麻痺の場合、30~40代になって障害の程度が重くなることがあるです。

医療センターでは手術を勧められました。でもその手術は治療するためではなく病気の進行を遅らせるためのものだと告げられました。
主治医の言葉を頭の中で何度も繰り返してみたものの、納得することはできませんでした。
そんな状態の中で、会社勤務を続けていたのですが、しびれは痛みに変わり、その痛みは徐々に増してきました。痛み止め薬、注射、それでも痛むとペインクリニックでブロック注射を受けました。
そのブロック注射の効果が切れた頃、ついに手術を受ける決意をしました。

手術は10時間以上に及びました。腰の骨の一部を取り、首の骨を補強すると同時に、首の骨の中にビスやワイヤーを埋め込み固定するというものでした。
手術前に、術後はよくて現状維持だと聞かされておりました。手術が終わった時、とりあえず右手の指が動くことを確認しました。指さえ動けばパソコンが使える、まだなんとかなると思ってたのです。
それから1年かけてリハビリの日々が続きました。少しずつ体は動くようになりましたが、今後のことを考慮して無理は禁じられました。外出時の足は自転車から電動車イスになりました。

模索を続けた日々

体のほうは手術前の7、8割まで回復したものの、会社勤務は体への負担が大きいからと主治医に止められました。
当時私はまだ30代、隠居するような気分にはなれませんでした。何か方法はないものかと模索する中で出会ったのがアフィリエイトの世界でした。

自宅で自分のペースでやれて、収入につながるかもしれないというのは、とても魅力的でした。
しかし、この世界に飛び込んでみて感じたのは信用できる情報が少ないということです。ちょっといいこと書いてあると感じても、この続きはこちらへと情報商材の購入ページにリンクされていることは本当に多かったです。
私には情報商材を購入するだけの金銭的余裕はありませんでしたので、慎重に購入者のその後を追いかけておりました。するとある商材を購入して数か月後には別の商材に手を出す、ノウハウコレクターという人たちの存在、せっかく購入した商材の中身に問題があって裁判にまで発展したという詐欺的商材の存在。
嫌な面もいろいろと見えてきました。

アフィリエイトの手法は、ほぼ独学という感じで、ネット検索と数冊の書籍から情報を得て模索する日々は続きました。
何度かは、こういうサイトを作ろうと本腰を入れてやってたこともありましたが、体調の悪化には勝てず、途中で投げ出す結果となってしまいました。
もしかしたらあの時、もうひと頑張りしてたら、アフィリエイターという道が見えてたのかもしれません。

支援の中で

私は母と2人で生活しており、炊事や掃除など家事は全て母がやってくれております。
2011年、その母が心筋梗塞で倒れ、手術・入院ということになりました。幸いにカテーテル手術だったので10日程度で退院できましたが、一人暮らしをしてみて、負担は大きく腰痛が悪化しても自分では湿布さえも貼れないのでした。
もしこんな状態が長く続くと共倒れになってしまうのではと心配になり、高知市障害者相談センターへ行きました。

そこで相談員の方にいくつかのサービスを紹介したいただき、私の生活は大きく変わりました。
まず、週に3度入浴介助にヘルパーさんに来ていただくようになりました。これによって母の負担も軽減されました。
また、障害者継続就労支援A型の会社で、在宅勤務が可能なところがあると聞き、面接を受けて採用していただきました。現在も平日4時間の勤務ですが、在宅で仕事をさせていただいております。
さらに医療保険が使える訪問マッサージを紹介していただきました。週に3回、在宅勤務が終わった時間帯に来ていただくようになり、腰痛などが緩和されました。

高校は寄宿舎生活、大学は一人暮らしをしていたので、最初はヘルパーさんのお世話になることに抵抗はあったのですが、これらの福祉サービスを利用させていただいてからは、生活の質が向上しました。

あれから10年、そしてこれから

頚椎症性脊髄症と診断されてから、ちょうど10年になります。
いつ寝たきり状態になるか分からない、これから障害の悪化がどう進むか分からないと言われたときには、不安と絶望感がありました。
でも10年後になる今、こうして在宅勤務という形でお仕事をさせてもらったり、知人のホームページのお手伝いをさせていただいたり、さらにはアビリンピックへの挑戦。
様々な人たちとつながりを持つことができ、元気に生活しております。

この10年大丈夫だったから、次の10年も大丈夫かもしれません。
もっと言うならば、誰もがいつどんな病気や怪我をするのかは、誰にも分りません。そして誰もが老いていきます。
私の場合は病名がついているから、他の人より少しだけくたばる可能性が高いというだけのことです。

誰もが先のことは分からないんだと思うと、今現在のいろんな方々とのつながりが愛おしく感じます。
一人一人とのつながり、同じ時間を少しでも共有できることの幸せを大切にしていきたいです。

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コメント

  1. より:

    紹介 言霊百神