阿久根市長 ブログの波紋

最近、色々と波紋を呼んでいるのが、阿久根市長のブログ記事です。
今朝のJNNの報道番組、『朝ズバ』でも取り上げられていましたが、昨日のインタビューで記事に対し謝罪・訂正とうをする気持ちはないとのことです。
ご存知の方も多いと思いますが、少し長めにそのまま引用させて頂きます。

医者を大量生産してしまえば問題は解決する。全ての医者に最高度の技術を求める必要はない。できてもいない。例えば昔、出産は産婆の仕事。高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果 擁護施設に行く子供が増えてしまった。
「生まれる事は喜びで、死は忌むべき事」というのは間違いだ。個人的な欲でデタラメをするのはもっての外だが、センチメンタリズムで社会を作る責任を果たすことはできない。
この中でもマスコミ等で問題になっているのは“高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果 擁護施設に行く子供が増えてしまった。”という部分です。
明らかに障害者排除とも取れるこの文章、市長としては、前後の文章を読んでもらえれば分かるとも発言されていますが、いかがでしょうか。
今朝のインタビューでは、市長である前に一人の市民であることを言われていました。暗に言論の自由とかを言いたかったのでしょうか。
でも、私でさえ、ブログ記事については、訪問者に誤解や不安感を与える表現になっていないかどうか、チェックしています。
ましてや、ブログ上でも市長であることを打ち出している以上、更なる配慮が必要ではないでしょうか。匿名の2チャンネルへの投稿とは、重みが違います。


一市民の意見として捉えたとき、私は小倉くめさんの秘めだるま創刊の思いを考えます。

1984(昭和59)年2月9日、愛媛県川之江市(現・四国中央市)で重度障害の娘さんと母親の親子心中がありました。そのとき、同じ障害者として、この種の痛ましい事件を一つでも無くしたい、と思ったことによります。
その種の事件が起きたときの周りの反応に、「可哀想なようなけんど、あの子らは生きとってもどうにもならんのじゃけん、今、死んどって幸せじゃったんよ」という意味の言葉が多くありました。
「死んだ方が幸せ」と言われる生命への疑問と、「アンタらは勝手にそう思い込んどるかもしれんけど、死ぬる側の思いは、そがいに簡単なもんじゃないんぜ」との思いが私の胸にありました。

(この文章の全文は、私のブログ記事、『秘めだるま《入門》《復習》講座へようこそ!!”>秘めだるま《入門》《復習》講座へようこそ!!』をご覧下さい)
障害者問題について、色々と考えること、思うこと、たくさんあります。
国際障害者年、国連障害者の10年などを経て、少しずつ精度や人々の意識が変化していることは実感しています。
一方で障害を抱えているというだけでなく、経済的なこと、精神的なこと、そんな問題にも直面している方が私の知人にもいます。
今回の騒動、怒りと情けなさと同時に、人によってこの言葉をどう捉えるのだろうかという心配があります。
みなさんは、どうお考えでしょうか。

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